アートと建築
5月26日に行われた第三回討論会の内容についてまとめます。上回生には開催の情報が行きとどいていなかったらしく、三回生以下と助手の藤井さんだけでの討論となりました。とはいえ課題の提出直前にも関わらず、幹事以外の3回生も参加してくれたし、新しい2回生も参加してくれて、前回ほどスムーズでないにしろ、内容の濃い議論ができたと思います。また3回生が議論をリードしていくよい練習にもなりました。ただ結論はどれもはっきりとは収束しなかったので、ここでは僕の主観でいくらか書かせてもらいますので、是非コメントで反論してください。
討論のテーマは「アートと建築」。アートとはなにか。建築とはなにか。アートと建築の差異と境界はどこにあるのか。アートと最も密に建築が関わる美術館のありかたとは。アートと建築というワードだけを手がかりに模索するように議論しました。
まずは美術館について。アートと最も人が近い場所を構成するはずの現代の美術館は、用途を変化させれば学校にも他の公共施設にもなり得るホワイトキューブです。これはアーティストは美術館の中をクリエイトもしくはクリエイトした物を飾るわけだから、そこがクリエイトされ過ぎた空間であっては都合が悪いからです。美術品の多くは美術館のスタッフが配置を決めているそうです。そもそも美術品の作者には死んでしまっている人もいるのだから当然ですね。そうなるとホワイトキューブの立場はさらに良いものになります。アートと人の間に建築は立てないのでしょうか。パリのピカソ美術館でシムネは抽象画家のピカソにふさわしい抽象的な空間で設計しています。個展なら可能なことです。美術館建築の巨匠、谷口吉生さんの豊田市美術館では可動式の壁に出展者は好きに穴をあけてりもできます。このように建築が美術作品に一歩譲ってあげる姿勢があってもよいのかもしれません。F・O・ゲリーのビルバオグッゲンハイムのように人が集まるランドマークになって美術と人を近づけるのも、あくまで表層的ではありますが解答の一つだと思います。
次にアートと建築の境界について話し合いました。しかしここでやはり言葉の定義をきちんときめなくてはなりません。まずアートとはなにか。これは悪く言うと、いきていくうえであまり必要のないものと言えます。アートは人間の欲求のなかではかなり下位に属するものです。しかし生物のなかでは人間しか作り得ないこの行為と生産物は、贅沢品のようなものであると同時に非常に高度なものです。では普通の物作りとの最大の差はなんでしょう。僕はクリエイティブな精神をもって感性に任せて作ることだと思います。そこになんらかのコピーや理性的なものが加わってしまうとそれはデザインの分類になると思います。そういう意味では建築はデザインに近い手法で作るから、そこにひとつの差異が生じています。そのぶん建築には欲求度の高いニーズがあり責任がありアートとの曖昧な領域の差も見えてきました。では逆に建築とはなんでしょうか。この話題が今回の議論一番の盛り上がりを見せました。人が現在暮らしている場。という意見もありましたが、廃墟は建築ではないのでしょうか。僕は生物が暮らすという意図をもって作った空間、もしくは偶然発生したそれに類似した空間だと思っています。空家はもちろん建築だと思っています。極端にいうとドラえもんの空き地の土管は建築です。これは僕の今の意見で、建築の定義は今回のテーマ的にもここでは結論をさけたいと思います。本題に戻ると、建築にも必要のない部分を設計したり、アートでもそれが建築的であったりします。つまりこの両者は共通項ももっています。逆に必要条件や十分条件だけを満たしたものもあります。長々と意味のわからん文章に最後まで付き合ってくださりありがとうございました。
五味 慶一郎
討論のテーマは「アートと建築」。アートとはなにか。建築とはなにか。アートと建築の差異と境界はどこにあるのか。アートと最も密に建築が関わる美術館のありかたとは。アートと建築というワードだけを手がかりに模索するように議論しました。
まずは美術館について。アートと最も人が近い場所を構成するはずの現代の美術館は、用途を変化させれば学校にも他の公共施設にもなり得るホワイトキューブです。これはアーティストは美術館の中をクリエイトもしくはクリエイトした物を飾るわけだから、そこがクリエイトされ過ぎた空間であっては都合が悪いからです。美術品の多くは美術館のスタッフが配置を決めているそうです。そもそも美術品の作者には死んでしまっている人もいるのだから当然ですね。そうなるとホワイトキューブの立場はさらに良いものになります。アートと人の間に建築は立てないのでしょうか。パリのピカソ美術館でシムネは抽象画家のピカソにふさわしい抽象的な空間で設計しています。個展なら可能なことです。美術館建築の巨匠、谷口吉生さんの豊田市美術館では可動式の壁に出展者は好きに穴をあけてりもできます。このように建築が美術作品に一歩譲ってあげる姿勢があってもよいのかもしれません。F・O・ゲリーのビルバオグッゲンハイムのように人が集まるランドマークになって美術と人を近づけるのも、あくまで表層的ではありますが解答の一つだと思います。
次にアートと建築の境界について話し合いました。しかしここでやはり言葉の定義をきちんときめなくてはなりません。まずアートとはなにか。これは悪く言うと、いきていくうえであまり必要のないものと言えます。アートは人間の欲求のなかではかなり下位に属するものです。しかし生物のなかでは人間しか作り得ないこの行為と生産物は、贅沢品のようなものであると同時に非常に高度なものです。では普通の物作りとの最大の差はなんでしょう。僕はクリエイティブな精神をもって感性に任せて作ることだと思います。そこになんらかのコピーや理性的なものが加わってしまうとそれはデザインの分類になると思います。そういう意味では建築はデザインに近い手法で作るから、そこにひとつの差異が生じています。そのぶん建築には欲求度の高いニーズがあり責任がありアートとの曖昧な領域の差も見えてきました。では逆に建築とはなんでしょうか。この話題が今回の議論一番の盛り上がりを見せました。人が現在暮らしている場。という意見もありましたが、廃墟は建築ではないのでしょうか。僕は生物が暮らすという意図をもって作った空間、もしくは偶然発生したそれに類似した空間だと思っています。空家はもちろん建築だと思っています。極端にいうとドラえもんの空き地の土管は建築です。これは僕の今の意見で、建築の定義は今回のテーマ的にもここでは結論をさけたいと思います。本題に戻ると、建築にも必要のない部分を設計したり、アートでもそれが建築的であったりします。つまりこの両者は共通項ももっています。逆に必要条件や十分条件だけを満たしたものもあります。長々と意味のわからん文章に最後まで付き合ってくださりありがとうございました。
五味 慶一郎
by kabaokabaokabao | 2009-06-04 15:34 | beyond 10%

